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「僕」   2010年  冬~夏

なーんか違う・・・ その訳は、営業員さんの言うのには冬は暖かくて、夏は涼しいですよ、って言ってたのに違う。冬は寒くて、夏は暑い。
営業員さんは高気密、高断熱ですよって何回も言っていた。
そこでお母さんが、現場監督に聞いてみた所、「安齋さんの家は在来工法だから、違いますよ。」だって。

ガ~~~ン!!  そうだったのか!営業員さんが何度も何度も冬は暖かく、夏は涼しいですよって言うから
てっきり、お母さんは床暖房が設置していなくても、高気密、高断熱だと思っていたらしい。
どうりで、隙間風がリビングの隅からピューピュー入ってくるし、コンセントに手をあてると風がくる。
「風の又三郎でもいるのかねー。」って面白くもない冗談をいっていた。

だったら、ちゃんと説明してほしかった。
でも説明してくた営業員さんはまったく現れない。
あのね、お母さんみたく無知な人もいるのよ。
あまり過剰な説明はしないで、ありのままを説明すればいいじゃんと僕は思った。
別にだったら建てませんなんて言ってないのにねー。
それならそれで、冬はお風呂場の脱衣所にはハロゲンヒーターを置いて、お風呂を沸かす時は蓋を取って沸かせば寒くない。
夏はエアコンと扇風機を使えば涼しいじゃん。
家を建てる人の中にはちゃんと調べてプロ並みの知識のある人もいれば、お母さんみたく説明を真に受ける人もいるのよ。
ちょっと古いけど、プンプン!
やっぱり、一番は誠意だと思った。

今、私が思う事。

今日は東日本大震災から2年6ヶ月が過ぎた。
だいぶ、朝晩は涼しくなってきたが、まだ日中は蒸し暑い。暑さ寒さも彼岸までと言うので、もう少しの辛抱だが、今度は寒い冬がやってくる。
被災者の人達はそれぞれ、色んな想いで今日と言う日を過ごしているのだろう。

最近はテレビでの報道も少なくなってきたように思える。
なんせ2020年に東京でのオリンピックが開催されるので、話題は持ちきりだ。
東京でのオリンピック開催は、それはそれはみんなの夢で経済効果も凄い事になるだろう。
私も東京でのオリンピック開催は嬉しいし、楽しみでもある。
でも、被災地の事も忘れないでほしい。
このまま風化されてしまうのではないかと言う不安もある。
原発で避難されている方々、津波で辛い経験をなされた方々の報道は目にするが、私達、住宅に関係する報道はほとんど伝えられていない。
確かにこういった問題は難しいのかも知れないが、震度5強の地震で築1年の家が全壊してしまうというのはありえるのだろうか。

ひさびさにSさんの「地盤は自分で調べる・・・」のブログを拝見してみたら、100件にもなっていて驚いた。
それだけ皆さん関心があるのかなとも思ったが・・・
その中で契約時に予算オーバーで揉めたので地盤改良を軽視したのではないか・・・と言う書き込みがありましたが、一体誰が一番大事な基礎の部分を軽視したりケチったりするのでしょうか。
基礎がしっかりしてないと建物がいくら立派でも駄目になるのは私達でも解りますし、理解してますよ。
現に他のハウスメーカーさんより「あそこは盛土と切土がまじってますので注意してください」と指摘を受けたのもちゃんと、当時の営業担当には伝えております。
予算オーバーの件は部屋の大きさです。
皆さんは地盤調査の件が気になっていると思うので、この件に関してはのちのち物語の中で書こうと思ってます。
それと、せっかく問い合わせの欄を設けたんですから、別の場所で論じるのではなく、直接こちらに問い合わせた方が良いと思います。ただし、裁判中との事もありますので、すべての質問にはお答えできるかは解りません。
Sさんは直接現場を見ていないと773さんからの指摘があったと思いますが、私もその通りだと思います。
茨城県にお住まいになっていますのなら、高速を使えば日帰りで福島の現地に来れると思います。
この家が解体される前でしたら、いつでも案内しますよ。日にちと時間もSさんに合わせますよ。

こういった事をブログ上で掲載するのであれば、ちゃんと現場を見てからの方がよろしいのではないかと思います。憶測で書くのではなく、真実をみてからの方がよいのではないでしょうか。
その他の皆様もこのお家を見学したいというのなら問い合わせメールで連絡下さい。
現に何名かの方々にはメールをいただいております。
もちろん内容を公開する気はありませんので、安心して下さい。

「僕」   2010年  6~7月

今度はお母さんの番だ。
お母さんの夢は芝生とウッドデッキ!
どちらかと言うとお母さんはアウトドア派。
芝生のある庭にウットデッキを作ってティータイムを楽しむのが夢だったんだって。
本当はティータイムじゃなくてビールを飲みたかったんでしょ!
「プハァ~~、あ~美味い!」ってね。
あまりよけいな事書くと、怖いので・・・

芝生を張り少し根ずくのを待ってウットデッキを作った。6畳もあるウットデッキで、夏になったら、ここで星空を見上げながら寝れるかもねって、いやいや蚊に刺されるよ。そしたらなんと言ったと思う?
蚊帳を吊るせば大丈夫よって。

芝生にホースで水を撒いていてくれているのが、長男の子供。お母さんにとっては初孫!img001
このお孫ちゃんとはかくれんぼをしたり、恐竜ごっこをして遊んだっけ。
かくれんぼは、あんまり広いので見つける事が出来ず、半泣きしてたのをお母さんが物陰から見ていてウケてた。    ひどいな~。
この写真は僕が一番好きな写真だ。というか僕のちゃんとした写真は残念ながら無い。
きちんとしていた頃の僕の写真を撮って無い事が今、2人をすごく後悔している。
なんせバタバタしていて、もうちょっと落ち着いたらと思っているうちに僕は壊れてしまった。
なんで撮らなかったんだろう・・・・・・今になってはわからない。
けれども家具達が入ってない時の写真は撮ってあるんだって。
唯一の救いです。

芝生の周りには季節の花々を植えて楽しみ、余ったスペースで家庭菜園を作るはずだったんだって。
そうやって一つ一つの夢が実現していくのを2人はとても嬉しそうだった。

そうして穏やかな日々が過ぎていくはずだった。
昼間はみんな仕事の行っているので僕は1人。
ただお父さんが夜勤の時は昼間いてくれるのであまり寂しくない。
たまに隣のラベンダー色のお姉さんの家からピアノの音色が聞こえて、心地よい気持ちになる。

僕はこの家に誕生してきて本当に良かっと思った。

「僕」   2010年  春 4月

今日は待ちに待ったお父さんのオーディオ類達が僕のお家にやってくる。
いつもはお母さんに起こされても中々起きてこないのに、この日は起こされる前に起きてソワソワしていた。
車の音が聞こえると、お父さんは満面の笑みでお出迎え。
お母さん、ちょっぴり ヤキモチ・・・

オーディオ専門の方々、総勢4人でやってきた。
まずはオーディオルーム!
お父さんの好きな音は臨場感にあふれ、生演奏の音がいかに自宅で再現出来るのかに挑戦している。
まだ途中だが70%位は達成しているが、まだまだ研究の途中だそうだ。
環境も整えなくてはいけないので、広い土地を選んだ訳。

それと、それに伴った機材。
まず、JBLのスピーカー。マッキントシュのアンプ。
MC275の真空管、これは高域用でバイワイヤーで聞いていた。
MC500は低域用。
C42はコントロールのアンプ。
レコードプレイヤーはやはり、オーディオ大好きな先輩が自作した物を譲りうけていた。
もちろん電源ケーブルも通常のケーブルではなく専用のケーブルを使用していた。

これで音楽を聴くともう最高!僕も一緒になってうっとりして聴いていた。
音楽とは、楽器の音とはこういうものなかと初めて解った。
お母さんが何も文句を言わなくなった訳、わかりました。

そしてシアタールーム!
普通は5.1chサラウンドシステムが主流らしいが、いやいやお父さんのは6.1chサラウンドシステムです。
メインスピーカー 2台
サラウンドスピーカー 2台
サブウーハー     2台
センタースピーカーがフロント、リアで2台

これに100インチのスクリーンが下りてきて、映画見てごらん!
特にアクション映画やSF映画は言葉では言い表せない位音が駆け巡る。
お父さんは映画館のよりこっちの音の方が凄いだろ~と自慢する。
またお父さんとお母さんはMISIAの大ファンなので、DVDを観て感激して、すっかりプクプク体型になってしまったお母さんは一緒なって踊っている。
本当にコンサートさまがらの迫力です。

でもお母さんは触るのは禁止。唯一スクリーンの上げ下げのリモコンだけ触っていいんだって。
お母さんは下手に触っておかしくなってしまったら、大変だから、その言いつけを忠実に守りスクリーンのリモコンを上げたり、下げたりして喜んでいる。

全部のセッティングが終わる頃にはすっかり日も暮れてきて、オーディオ屋さん達が帰って行き部屋に戻って来たお父さんはオーディオ類達を見まわした後、これまでに見た事もない優しくて可愛い顔をしていたんだって。
よっぽど愛おしいんだね。
お母さんちょっぴり上のヤキモチ・・・

このお話には続きがあり、震災後の今年(2013年)思い切って展示会に行ったんだって。
お母さんはまたお父さんが落ち込んでしまうのではないかと少し心配だったらしいけれども、お父さんのたっての希望で郡山のビックパレットまで行く事にした。
展示場に入って行ったお父さんの目はまんまる!
時代は4Kの世界だった。私達ってもしかして浦島太郎???
食い入るようにスピーカーやアンプを眺めるお父さんを見て、お母さんはヤバイと思って、「私はロビーで待っているね。」って言ったのに聞こえているのか、聞こえて無いのかフラフラと4Kのシアタールームに吸い込まれて行った。
一体どの位の時間が過ぎたのか、シアタールームから出てきたお父さんの目のなかには少女マンガみたいに☆☆があったんだって!!
そしてニコニコしながらまた両手いっぱいのパンフレットを持ってたんだって。
とりあえず、お母さんは見なかった事にしたらしい。

 

「僕」  2010年   3月

出だしは最悪な引き渡しとなったが、新しい生活が始まった。
いつまでもクヨクヨしていても仕方ないし、あの営業員さんは2週間後のアフター訪問来ますと言っていたのに2度と現れなくなった。
僕も顔も見たくないから  いいやって思った。
すっかり変テコな形になったテレビボードも今までのいきさつをすべて統括責任者に伝えて直してもらった。
けれどもオーディオ類達は結局入らなかった。

新しい生活はお母さんには驚きの連続だったらしい。
お母さんのお城はキッチン、念願のL字型!!  ひろ~~い。
流しの高さもお母さんの身長に合わせて90cmにしてもらったからもう腰も痛くない。
お母さんは食洗機に興味があるらしく、なんこんなに綺麗に洗えるのかしらね、これがスケルトンだったら見れるのにねーって。
IHもなんで電気で料理ができるのかしらねーって。
あげくのはてにはグリルは使うと汚れるから単品で売っている魚焼きグリルを買おうと言い出すしまつ。
さすがにそれは家族に反対されました。

お母さんは朝も早い。早い時は4時30分頃から起き出して掃除を始める。
「お母さん、僕はもうちょっと眠いよ~、なんでそんなに早く起きるのー?」
「だってね、嬉しくて嬉しくて仕方ないのよ。こんな素敵な家で暮らせるのがって言ってモップで僕をコチョコチョする。   くすぐったいよ~。
「お家はね子供と同じなの、ちゃんと手をかけてお手入れしてあげないとね。」
「それじゃぁ僕はお父さんとお母さんの子供なの?」
「あたりまえじゃない!大事で大切な子どもよ。これからずーと一緒に時を重ねていくのよ、宜しくね。」
う~ん  ちょっと照れるけれども嬉しいな。こちらこそ宜しくお願いします。

インターホンの保護シールも給湯のお知らせのシールも剥がしてしまうと指紋で汚れるからってお母さんは剥がさない。   壊れてしまった今でも剥がさない。

そういう訳で僕はいつもピカピカだ!

 

「僕」  2010年  2月

いよいよ僕の引き渡しの時がきた!
でもお父さんは朝から機嫌が悪い。なぜかと言うとちゃんと寸法を測ってもらっていたオーディオ類達がテレビボードに入ると言っていたのに入らないのだ。
形状も何だか変な形に変えられた。
電気屋さんにもこうしてほしいと頼んでいたのにしてくれない。
営業員さんは残工事だと言っていたが、展示場に同じのあったじゃない・・・
一番最初の営業員さんも是非立ち合いたいといってきたので、来ていた。

お父さんはオーディオ類達のためになると人が変わってしまう。
そうなるとお母さんも何も言えない。
とうとうお父さんが我慢できなくなってしまい声を荒げるとなんと営業員さんが逆切れしてきて怒鳴りかえしてきた!
僕はビックリした。
お父さんと営業員さんの怒鳴り声が響く!
お父さんが「なんで3回も寸法書いた紙を渡しているのにできないんだ!」
と言ったら最初の営業員さんは「僕はウーハーの寸法しか計ってないですよ。それとね、お客さんは大工さんとは直接話は出来ないのですよ。」と耳を疑うような返事が返ってきた。

その時2人のやり取りをポカンと見ていたお母さんが「プチン!」と切れた。

「やめてくだい!!」と・・・
「家は生きているんです。良い気も悪い気も吸収してしまうんです。なんでこの引き渡しの日にあなたに怒鳴られなくてはいけないのですか!やめてください!」と・・・
そして泣き出してしまいその後は言葉にならなかった。
大泣きしはじめた。

せっかくのお祝いの日にお母さんは営業員さん達の為にもお弁当をたのみ、みんなで食事でもしようと思ってたらしいが台無しになってしまった。
お弁当は持って帰ってもらった。

お母さんはずーと泣いている。
お父さんは「ごめんね・・・」って誤っている。
お母さん泣きやまない。

僕は悲しかった。
とても悲しかった。
言葉では言い表せないくらい   悲しかった。

「僕」   2009年   秋~冬

地鎮祭が終わり、基礎工事にはいった。
時間がある時はお父さんとお母さんは何度も足を運んだ。
なんだか法面ギリギリにより過ぎているような気もしたが、大丈夫と言うので大丈夫だと思ったらしい。
上棟式が終わると、あれよあれよと言う間に僕が出来上がってきた。
大工さんは夜遅くまで仕事をしている時もありお父さんが仕事帰り道路から上を見ると明かりがついている時もあった。

お父さんは長年の夢だったオーディオルムとシアタールールが出来るのが嬉しくて仕方ないらしく、営業員さんや設計士さんに3回もオーディオ類達の寸法を書いた紙を渡していた。
(前の営業員さんはお父さんの実家に行き実際に寸法を測り写真まで撮っていった。また福島では有名なオーディオ屋さんにも一緒に行ってもらい、どのような仕様が一番良いのか店長さんに話をしてもらっていた。)

それほど楽しみにしていた。
お母さんは「男の人の趣味は解らないわね~」とぼやいていた時があったらしい。
なんせ結婚が決まってからお父さんはお母さんに内緒でマッキントッシュのアンプやら何とかかんとかのパワーアンプやら総額100万円もする買い物をしていた。

あとでお母さんにばれて「誰が払うのよ!」って怒られたらお父さんは「そりゃお母さんが働いて・・・」だって
お母さんは開いた口がふさがらなかったらしいが何回かオーディオの音を聞いているうちにすっかり自分も虜になってしまい、「まぁ いいか」とお父さんの趣味に理解を示すようになり、それから口を出さないようにしたが、オーディオの展示会には必ず同伴するようにしたんだって。
だって危ないからね~。
でもお母さんはお父さんが本当に嬉しそうにオーディオをいじっている顔が大好きなんだって。

 

「僕」  2009年  9月  秋

「ぼく、 僕、起きて、ほら早く、起きてったら。」
どこか遠くで僕を呼ぶ声が聞こえる。
う~ん何?  そーと目を開けてみると、そこにはお父さんとお母さんの顔があった。
「ほら、起きて!僕の地鎮祭よ!」
「え!?地鎮祭?  地鎮祭!  えー僕の!?本当に? 僕が建つの!?」と半信半疑で飛び起きてあたりを見ると神社の宮司さんや工務店の方々がいた。
やんちゃな息子さんも病院から外出許可をもらって立っていた。
息子さんはちょっと照れたような感じで「よおっ」と言ってきた。
僕はあまりお母さんに心配かけないように文句の一つでも言いたかったが、お母さんが「まぁまぁ、今日は特別な日だから」って

厳かに地鎮祭が始まった。
住所を読み上げる時、番地が隣のラベンダー色のお姉さんの番地を読み上げた。
お父さんとお母さんの肩がピクッと震えた。
僕は「あちゃー、違うよ、その番地じゃないよー、なんでー?」
式の最中に中断も出来ず一通り終わった後、営業員さんが謝ってきた。
ちゃんとFAXで正式な住所を送りましたと。
これで3回目、契約時の番地、地盤調査報告書の番地、地鎮祭での番地、どれも隣のお姉さんの番地になっている。
その都度訂正しますと言うけれども・・・
たかが住所と思うかもしれないけれども、やっぱり間違えないでほしいと思う。
だって、お父さんとお母さんにとっては大切な事だと思うんだけどな・・・・・
ちょっと複雑な気持ち・・・

そしていよいよ僕が建ち始めた。

 

「僕」  2013年  8月11日  夏

今年の梅雨は中々明けてはくれず、やっと晴れ間が見える日がやってきたと思ったら猛暑だ。
どこかで、夏祭りのお囃子の音や花火の音が聞こえる。
今日はあの日から2年5ヶ月目の11日だ。

この前の休みの日お父さんとお母さんが久しぶりに来てくれた。
いつものとうり「ただいまー!」って言って家の中に入ってきてくれた。
一通りお家の中をお父さんとお母さんは確認するように一つ、一つ回っている。
いつもお父さんは家に来ると、オーディオルームから中々出てこない。
お部屋を回る時、いつもお母さんは僕を撫でてくれる。
僕を撫でてくれるお母さんの手は温かくて気持ち良い。
でもなんか今日は様子が違う。  久しぶりだから・・・・・・?
お父さんとお母さんは静かに僕に語りはじめた。

「え!?なんて言ったの?かおくかいたいって?」
家屋解体!? 僕は壊されるの?無くなってしまうの?」
お母さんは涙をポロポロ流して「ごめんね。」って僕に言った。
お父さんは涙を必死にこらえているのが分かった。

お母さんは僕を市役所の家屋解体に申し込んでいた。
(家屋解体とは、国の補助事業であり危険な建物等を早急に解体し二次災害等を防ぐのが目的)

お父さんとお母さんは僕が修復できないか、何人もの建築士さん達に見てもらった。
皆一応に首を横に振るだけで無理だと言う。
まして土地もやられてしまっているので、これは解体するしかないと言う。
僕を見て回った後、必ず「福島市の震度はいくつだったのですか?」と聞かれるので、
「震度5強です。」と答えると皆、首をかしげて黙ってしまう。
もうこの場所には戻ってこれない。

そうか、僕はとうとう壊されるのか・・・

本当は知っていた。
だって隣のラベンダー色の綺麗なお姉さんの家は今年、春先解体され更地になった。

このラベンダー色のお姉さんは最初僕が話かけても、子供の相手なんかしてられないわって感じで忙しく働いていた。
だって、お姉さんのお家は5人家族でいつも忙しそうだった。

でもね、東日本大震災の時は僕はお姉さんに励まされた。
ただ何が起きているの解らない僕を「しっかりして! 頑張って!!」って言ってくれ、その後僕の家やお姉さんの家には誰も帰ってこなくなり、僕がシクシクしていると、いつも慰めてくれた。
そして静かにお話してくれ僕は安心した。
お姉さんの家が解体される日、僕はなんと声をかけてよいかわからずにしていると、お姉さんが
「  僕、とうとうお別れの日が来てしまったわ。
私はこの家の家族と出逢えて幸せだった、たった15年ほどだったけれど・・・
本当はこの家の子供達の成長をもっと見たかった、この家のお父さんとお母さんとも、もっと一緒にいたかった。  でも大丈夫よ。
私がいなくなってもきっとこの家の家族の人達は私を忘れないでいてくれると思う。色んな事あったけど心の中でずーと一緒にいてくれると思う。だから僕も僕の家族の方たちは僕を忘れないでくれると思うわ。
忘れないかぎり心の中で私達はいるのよ。」って
そして静かに姿を消した。

僕はとうとう一人ぼっちになってしまった。
そして僕も近いうちに姿を消す事になるのだろうと思った。

お母さんの話では、それでも市役所の人に話をしてくれて待ってもらってたけど、もう期日が迫ってきたと言われてしまった。
僕がいなくなれば証拠が無くなる。
でもこのまま僕が建っていると危険だし解体費用もお父さんの負担になってしまう。
大人の事情なのかも知れないが僕は解るようで解らない。
ただ一つ解っているのは11月頃解体されるという事。

僕はわかってたんだよ、  お母さん・・・
そんなに泣かないで。
だから僕は最近、お母さんのブログをちょと拝借してるの。  そして僕の事書いてるの。
何人の人達がこのブログを見ているかわからないけれども、僕がいた事を忘れないでいてほしい。
たしかに僕がここに建っていた事を忘れないでいてほしい。
あの日、東日本大震災があった日。
津波で家や家族を大切な宝物を失った人々。
原発事故で避難を余儀なくされた人達。
人それぞれ色んなドラマがありまだ終わっていない。
そんな中の大きな出来事の中で僕の事はちっぽけかもしれないけれども・・・
確かに僕はここに建っていた事。たった一年だったけれども
忘れないでいてほしい。

お母さんの涙は止まらず、お父さんまで泣き出してしまった。
お父さんは一言「無念・・・」と言った。
僕はしばらくそっと見守る事にした。

お母さんが顔を上げて僕に語りかけた。
「今まで壊れたままでも頑張って建っていてくれてありがとう。痛かったよね、ごめんね」
と何度も謝る。
「そこでお父さんとも相談したのだけれども、最後に僕がずーとやりたかったバーベキューをしよう!
みんなに来てもらって楽しくワイワイしようね。」

「え~!!本当!?  やったー!
僕もやりたかったんだバーベキュー↑↑  ありがとう!楽しみだなー  ねぇ いつ?いつ?」
「そうねー、10月になって暑さも和らいできたらね。」
「えー、でもトイレも無いし水も出ないよ。」
「大丈夫、お父さんに任せなさい。」とお父さんが言ってくれた。
なかなか頼もしいじゃん! お父さん!
それから僕達はバーベキューパーティーにかんして、ここにこれを置いて、草も刈らなきゃとか
あーでもないこーでもないとお話した。
そしてお父さんとお母さんはアパートに帰っていった。

でも本当は僕のお別れ会なんでしょ?
知っているけれど誰もなにも言わない。

僕がこうしてここに建っていられるのもあとわずか・・・・・・
僕はここにいる。
そして僕の物語は続いていく。

 

 

 

「僕」   2009年   夏

この2ヵ月の間色んな事があった。
結局、営業員さんはお父さんとお母さんの信頼が戻らず、別の営業員さんが僕を引きついた。
7月にはお母さんの息子さんがバイクで事故を起こしてしまい、生死をさまよった。
幸い一命は取りとめが、3ヶ月の入院生活を送る事になり、僕の話も一時中断するという事になった。
お母さんはそれどころじゃないといった感じだ。

僕はもう生まれてこないかもしれない。
僕は深い闇の中に姿を消す事にした。