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「僕へ」

5月の末に僕へ手紙を届けてから、もう6ヶ月が過ぎてしまったのね。時が経つのはとても早くて、やっぱり中々追いついていけません。
こちらは、すっかり秋から冬へとなるようで、白鳥も飛来して来たとの事です。今年の夏は雨ばかりで、夏は7月で終わってしまったのかしらと錯覚する位8月はずーと雨でした。
また、台風が来て去ったと思ったら、また台風と・・・忙しい秋ですね。
そんな中、お父さんは突発性難聴になってしまい、お母さんはとても心配でした。原因はわかりませんが、ストレスだそうです。もう、お父さんの大好きなオーディオ達に囲まれての最高の音楽が6年と8ヶ月も聴けていません。仕事から疲れて帰ってきて、また休みの日の至福の一時で音楽を聴いてニコニコと笑顔でいたお父さんはどこかへ行ってしまいました。アパートはとても狭く、また音がけっこうもれる為、今はなるべく音をたてない生活で、とても窮屈です。本当に窮屈で、めったに喧嘩しないお父さんとお母さんでも、休みの日に雨で何処にも出れない時、洗濯物に取り囲まれて、ちょぴりギスギスしてしまいます。お互いストレスが溜まっているなーと感じます。

前回の手紙で、僕に須賀川での裁判の事を書いたと思うけど、担当した弁護士先生の講演を聞く事が出来ました。注目したいのは、僕の事案と非常によく似ている点でした。平成23年の東日本大震災で、盛り土の法面が地盤崩壊して、住んでいた住宅の基礎地盤に亀裂や割れ目が生じ傾くなどして、使用不能になったとの事でした。
お母さんは専門知識が無いけれども、「盛り土の敵は水である。」と言う点はわかりました。きちんとした排水対策をしないと危ないと言う事もわかりました。僕が居た場所は盛り土の法面高が20m超の高盛り土。現に震災後、法面を補強していた業者さん達から水がすごく出ましたよ。と言われたのは僕も聞いてたよね。
須賀川の住民の方々は平成6年~8年の間に住宅を建設して、東日本大震災が起こるまでは、これと言って支障もなく生活していたんですって。それに比べると、お母さん達は引っ越してすぐに異常を感じていたし、普通、地盤調査を2回も行うなどは、あまり例が無いんですって。また、僕の後ろの土地に家を建てる予定だった方からも、陳述書が頂けました。
震災前に地盤調査を行った際に業者の方から「この土地は地表面から地下の5mまでの間に自沈層があり、不安定な地盤です。通常の基礎では駄目です。ズブズブで危ないです。地盤改良するか、杭を打つかのどちらかですが、杭は狭い範囲で打つので、費用は200万円位かかります。」と告げられたそうです。その1カ月後、東日本大震災が発生し、安齋さんのお宅の地盤が崩れたと聞き、実際に見に行った所、あまりの酷さに驚き、このまま家を建てるのは怖いと考え、契約を解約したそうです。
僕はただのべた基礎、しかも法面ギリギリ、地盤調査も法面の角地にも関わらず、真ん中3点。この違いは何なのか知っている方がいたら教えてほしい。
最近、思うの事は東日本大震災から、もう6年と8ヶ月、まだ6年と8ヶ月と思うのか、時間だけがあっというまに流れ取り残されいる感じです。今年の3月で借り上げ住宅が終わり、今は既存のローンとアパートの家賃を支払っているけれども、もう跡形も無い住宅ローンを毎月支払っているのは経済的に」とても苦しいし、悔しいです。

裁判は、本当は9月でしたが、12月に延期になりました。詳しい理由はわかりません。

たまに、僕が居た場所を尋ねるけれども、そこは静かで・・・僕が居たのは幻だったのかしら・・・
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僕は確かにここに居た。たった1年だったけれども、ここに居たのよね。

今日は平成29年11月11日。

「僕」へ

もう季節は5月も終わりとなり、新緑が眩しい位いになりました。暑かったり、寒かったりと寒暖の差が激しく先週は雨ばかりだったのが、今週は暑く30°超えとなり、身体がついていけません。

そんな中、5月20日にはお孫ちゃん達の運動会があって、なんと!お母さんは6年生の借り物競争で女の子がお母さんのところに走ってきて「誰かのお母さん、一緒に走って下さい!」と言われたんだけれども、心の中で「いやー、誰かのお母さんではなく、誰かのおばあちゃんなんだけどなー。」って思っていたら脇にいたお嫁ちゃん達に「行けー!」と言われ、思わず女の子の手をにぎり一緒にゴールに向かって走ってました。何十年ぶりにこんなに思いっきり走っただろう。気持ち良かった!  でも、2,3日後には足腰がとても痛くなりました。その後のお弁当タイムはみんなで持ち寄ったお弁当を広げて美味しく頂きました。お母さんの息子2人もお孫ちゃん達と同じ小学校だったのよ。こんなに大きくなった息子達とお嫁ちゃん達とお孫ちゃん達との運動会はとても楽しかったけど、、あの頃と変わらない小学校の校舎、校庭の隅のプール、逆上がりを練習した鉄棒・・・日差しが眩しく、時おり風が吹き頬にあたると、過去にさかのぼって幼い頃の息子達がいるような気がして、お母さんにとって、ちょと不思議な感じがしました。

そんな中、嬉しいお知らせが2つあります。まず1つは須賀川市で東日本大震災で住宅の基礎が損傷したのは、地盤の安全対策が不十分だった為として、住人の方が訴えていた裁判で原告の主張が認められ勝訴したという事です。しかも、須賀川市の震度は6強、福島市は5強、須賀川市の方が揺れが大きかったの。このような判決が出たという事は大きな希望でもあり、お母さん達の頑張りにもなると思っています。相手側は控訴しなかったとの事でした。何回も書くけれども、震度7で全半壊ゼロって言ってたではないか。地盤調査の大切さも言ってたではないか。なんで、あんなに高低差のある盛り土の端っこに建てて安全だと言ったの?東日本大震災の前から我が家は小さな地震でも揺れるって言っていたじゃないか、では、なぜ「僕」が全壊したのだろうか。地震が大きかったから・・・震度5強だったから・・・須賀川市の判決を見ると、その理由はちょと違うのではと思ってしまいます。

もう1つはお母さんのホームページを読んでくれたというI,B,Lホームズの米内さんという方からメールを頂きました。仙台にて欠陥住宅トラブルや住宅検査を行っている建築事務所です。このような会社がある事をどれだけの人達が知っているだろうか。お母さん達も、もっと早く出会ていたならば・・・と思います。大切な大切なマイホームを建てた後で悩むよりは、第三者にきちんと検査してもらい、安心して住んだほうが良いと思いました。米内さんのホームページの中に

家は一生に一度の大金を払って買うもの。

家族の団欒の場。子供の勉強、遊び、成長の場。

地震や台風など自然災害や犯罪から身を守る器。

資産として次世代へと受け継ぐものです。

と言う言葉が記載されています。まさに、そのとうりだと思います。米内さんとは相互リンクをする事となりました。現在、このような事で悩んでいる方々がいましたら、是非、米内さんのホームページを見て下さい。
http://www.yonaisk.co.jp/

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前に紹介した、榊君はこんなに大きくなりました。

僕へ・・・お父さんとお母さんは頑張っています。この広い青空の何処かから、どうぞ、私達の事を見守っていて下さい。

「僕へ」

決して忘れていた訳では無く、毎日僕の事を想っているのだけれども、なかなか僕に手紙が書けず、今日まで至ってしまって・・・ごめんね。

時の流れというのは早いもので、もうあの日から6年が過ぎ、季節は移り変わり桜の花が咲き、すっかり春らしくなって来ました。

さて、僕に伝えなくてはならないのは、裁判は棄却されました。全壊した理由は地震が原因だからだそうです。残念でなりません。僕に手紙を書けなかった理由です。でも、どうしても納得がいかないので、仙台高裁に控訴をし、2月からまた裁判が始まりました。ここからはお母さんの意見を少し聞いてね。

昭和56年に新耐震基準ができた。新耐震基準では「震度6以上の地震でも倒れない住宅」と変わった。東日本大震災での福島市の震度は5強・・・で全壊。では、なぜ全壊してしまったのか、去年、設計測量会社に依頼をして正確な法面の長さを測ってもらった。そうした所、西側の法面は47.57m、北側は22.23mもあった。ここは完全な盛り土、その法面ギリギリの角地に僕は建てられた。今考えると、とても怖い場所に僕は建てられたのよね。一条工務店はここは危険な場所だとは認識していたのだろうか、いなかったのだろうか。「本当は怖い地盤の実態、造成地の危険性」というのを一条工務店はホームページで掲載している。ここでは造成地盤の危険性を訴えているが、まさにこの造成地は僕の事をあらわしているように思える。一条工務店の担当の方は、ここは適正な造成地だからと言うのはどのような判断だったのか教えてほしい。

6年という時間はお母さんにとってはあっと言うまに過ぎていくような感じで、時間に追いつくのがやっとです。もう、日差しは暑いのに、まだ冬物を着ていてなぜこんなに暑いのかとカレンダーを見て、あっ!もう5月なんだとか寒くなってきても気づかずに半袖を着ていて、またカレンダーを見て、もう冬じゃん!と言う感じで時間が早すぎて、やっぱりお母さんの中では時は止まっているままです。そんな中、この前といっても1月の話でテレビを見ていたら、震災後の自殺者が最近増えてきていると言う。その中で2014年に避難解除となった川内村に帰還して、結婚した若い夫婦が、その3年後に自ら命を絶ってしまった。集落を見渡せる山で命を絶ってしまった。なぜ、新婚で幸せいっぱいのはずの夫婦が自殺しなければいけなかったのか。夫婦はお米を作っていたというが、風評被害で売れなくなった。放射能は検出されず、地区で行われた品評会でも1位になったという。色んな意見があるとは思うが、いっぱい、いっぱい頑張ったんだと思う。テレビの取材で夫婦仲良く、バーベキューをして、未来を笑顔で語っていた姿の先は未来だったのか、希望だったのか、諦めだったのか、苦悩だったのか・・・私も時々、もう生きているのが嫌になる時がある。もう、疲れて疲れて、息をするのも嫌になる時がある。消えてしまいたい症候になる時がある。でも私は自殺はしない。なぜなら・・・悔しいから、悔しいから自殺はしない。たとえ裁判に負けて、すべてを失って自己破産しても悔しいから死なない。でも、もし死んだらお化けになって出てきそう~~。

「福島は元気です!頑張ろう福島!」よく目にしたり耳にしたりする言葉だが、どこが元気で何を頑張れは良いのか教えてほしい。誰にも知られず、ひっそりと亡くなっている人達や心に深い傷をおっている人達、前に進めずにいる人達もいる事を忘れないでほしい。今年の3月には借り上げ住宅も終了となり、家賃が発生してくる。復興住宅にも入れず、6畳2間の狭い部屋でクローゼットも無くアパートの階段を上り下りするだけで部屋が揺れ、毎月10万円のローンと家賃の支払いと、裁判でこの先どうなるんだろうと思いながらの生活をいつまで続けていけばいいのか。でもこれが現実。

そして、誰か教えてほしい。なぜ、私達の後ろの土地の地盤が悪く、法面に近い私達の土地の方が地盤が良いとの調査結果になったのか、どうしても私にはわからない。誰かわかる方がいるのならば教えてほしい。

朝起きてまた一日が始まる。何事もなかったかのように日常の生活が始まる。イヤでも時間は流れる。お父さんとお母さんとちぃちゃな僕との生活が始まる。ちぃちゃな僕はやっぱりかっこいいし大好きだ。あ~あ、タイムマシンがあったらなっと妄想にひたり今日が終わる。

「僕」へ

暑かった夏はお盆を境に風は秋の風へとなってきました。今年は台風が日本に上陸する数が多くあちこちで被害が出ています。9月になってからは雨ばかりの日が多くて太陽の日差しが懐かしいです。

お母さんは相変わらず、ちょっと疲れています。でもそんな中、お父さんとの温泉旅行はとても楽しかったです。裏磐梯の檜原湖の隣にある大きなホテルで広すぎて迷子になりそうでした。家族風呂は無かったけれども、大きな大浴場と湖が見渡せる露天風呂を満喫できました。また、食事も大好きなバイキングで、お腹いっぱいになって久しぶりにベットでゆっくり寝れました。このホテルの売店で買った洗顔の石鹸がとても極めが細かい泡が立ってお気に入りで毎日使っています。無くなったらまた連れていってもらおうかな。

 

裁判の日

裁判は10月25日、午後1時10分になりました。長かったよね、本当に長かった。思えば、ホールダウン金物の緩みを指摘したところ、一条工務店に調停にかけられ、右も左もわからなくて途方に暮れていて、取りあえずお父さんと2人で調停に臨んだけれども一条工務店には3人の顧問弁護士がいて本当にこのまま泣き寝入りするのかなと思っていた時、ある方からの紹介で今の弁護士先生と出会えました。とても忙しい先生だからと言われ無理かなって思っていたけれども、先生は一緒に闘いましょうと言ってくれました。それまでは、まさか人生で自分達が裁判をするとは思わなかった。お母さんは先生がヒーローに見えてしばらく身体の震えが止まらなかったの。僕も何回も先生には逢っているよね。ここまで諦めずにこれたのも先生のおかげだよね。これまでの裁判の内容は判決が出てから詳しく僕に報告しますね。

 

最近、乳がんと闘っている有名な女性の方がブログで「あの時」というのが報道され話題になっています。多分、大勢の方がそれぞれの「あの時」を思っていると思います。

ねぇ僕・・・・・・

なんで「あの時」もっと詳しく調べなかったんだろう・・・

なんで「あの時」専門の地盤調査会社に頼まなかったんだろう・・・

なんで「あの時」大丈夫です。安心して住んでくださいと言う言葉を信じたんだろう・・・

自責の念みたいなロープが身体中に巻き付いて息が苦しくなる時があるのよ。

お母さんはよく僕に「家族団欒」って言葉を言ってたのは覚えてる?実はお母さんは小さい時からあまり家庭に恵まれずに育っていて「家族団欒」と言う言葉にとても憧れていたの。みんな揃って夕食を囲んで楽しく食事をしたり、おしゃべりをしたりという風景にとてもとても憧れていたの。だから、僕と出逢えてお母さんの夢が叶うと思った時、とても嬉しくてね・・・僕を失ってからは日に日に心にポッカリと穴が開いていくのがわかるのよね。なんだったんだろうなーって、本当になんだったんだろうなー・・・

「家は性能」、阪神淡路大震災でも全半壊ゼロでした。建築のトラブルの約7割が「地盤」がらみです。建物の耐震性がいかに高くても地盤が弱くては家は傾いて不同沈下を起こしかねません。そうしたトラブルを防ぐのは徹底した地盤調査が不可欠・・・信じていた。だってお父さんとお母さんは専門的な事はわからないからプロとして信じていたのよ。

でもね、僕・・・お父さんとお母さんは今だに一条工務店の家は大好きなのよ。だって僕と出逢えたから。外観は可愛い煉瓦つくりで内装はモダンで気品があって、そんな僕が大好きだった。かっこよかったもんね。何も出来ないまま僕との生活があっというまに終わってしまってしまい、本当に何だったんだろう。

地震が原因で僕が壊れてしまったのではない。お父さんとお母さんは地震が来る前から異常を感じていた。だから2回目の地盤調査を依頼したのよね。福島市で僕以外に新築1年の家が全壊したなんて話は聞いた事が無い。

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風は吹くのだろうか・・・

時間は動き出すのだろうか・・・

「僕」へ

僕に最初に手紙を書いた季節はまだまだ寒く、時折春の暖かい木漏れ日が眩しかったけど、今はもう8月でお母さんの住んでいる福島は7月の終わりにやっと梅雨が明けたと思ったら、日差しが強くセミの声が聞こえすっかり夏になってしまいました。毎日とても暑いです。 4月には熊本で大きな地震があったのよ。家を失ってしまった方々もたくさんいて、心が痛いです。お母さんはその頃体調を崩してしまい、帯状疱疹になってしまったの。右胸と脇の下、背中に発疹が出て、まぁこれが痛いのなんのって夜も眠れないほど大変だったの。ちぃちゃい小人が身体の中にいてギュ~ってつねっている感じ!お医者さんはストレスや疲労が溜まると免疫力が低下して発症するって言われたけども身体は正直だなって思いました。それから、あまり体調の良く無い日々が続き、今は歯が悪くなって病院通いの日々です。もっと早く僕に手紙を書きたかったのだけれども、遅くなってごめんね。いつもチャキチャキ威張っているお母さんがあまりにもおとなしいので、お父さんは心配してくれて、とても優しいです。なので、もうしばらくおとなしくしていようと思ってます。そんなお母さんを元気つけようと、今度のお父さんのお盆休みには温泉に連れて行ってくれるんだって!久しぶりに大きなお風呂に入れるのはとっても嬉しいです。家族風呂はあるのかな~久しぶりにお父さんの大きな背中流したいな~、お母さんの背中もたくましいけどね。へっへっへっなーんてね、お母さんの近況はこれくらいしといて、今日は僕のお家の中を紹介しないとね。お待たせしました!!もう~本当にそっくりでしょう。ミニチュア僕!

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この1階部分の階段の下には、お手洗いもちゃんとあるのよ。細かいところも本当にそっくりに作っていただき、改めて川島工房さんにはお礼を申し上げます。こうやって見ると、僕はとても広くてりっぱだったのね。たった1年しか僕とは一緒にいれなかったけども、ちっちゃい僕になってお父さんとお母さんの元に帰って来てくれるとは、色んな想いがこみあげて言葉になりません。ちっちゃい僕がいつもそばにいてくれるので寂しくはないけれども悲しいです。

この前ね、ちょと遠出をして星を見にお父さんと2人で行って来たの。僕と一緒の時は広いウットデッキに出ると星空が見えてとても綺麗だったけれども、今はアパートで回りに家もたくさんあるから、星空を見る機会は無いの。星空はとても綺麗でお父さんと僕の事話していたら、近くに小川が流れていて、そこからホタルがスーとあらわれたの。たった1匹だったけれども、お母さん、初めてホタルを見たの。とても綺麗だった。

実はね、裁判の事だけれども、判決の日がやっと決まりました。長かったね。

今度の手紙は判決に向けての今までの想いを僕に話ししたいと思うので待っていてね。また手紙かきます。

お母さんより

「熊本地震で被災した皆様へ」

今回の熊本地震で被災しました皆様へお見舞い申し上げます。

私の経験上、役に立ちました支援物資をお伝えしたいと思います。

①女性の方、避難生活が長引き、お風呂にも入れないと思います。また、下着の替え、洗濯も出来ないと思います。その時に役に立つのは、生理用品です。パンティーライナーが無い場合は生理用ナプキンでも代用できます。私も実際、下着の替えもなく、お風呂にも入れない時にとても役に立ちました。

②歯を磨いて下さい。今、飲料水はとても貴重でそんな事できないと思っているかと思いますが、これは、とても重要な事です。私も断水で水はとても貴重で歯なんて磨いている場合ではないと思っていましたが、口の中を清潔にしてください。私は歯を磨くのを怠った結果、前歯は差し歯、そのほかの歯が虫歯になり酷い目にあいました。1日一回でも良いです。何等かの方法で口の中を清潔にしてください。

この二つの企業の方、どうか支援物資として送って下さい。

このブログを見た方は避難している方に伝えてください。

また、お子様連れの方、子供は何が起きているのかわかりません。避難所で少しのスペースでも良いですから、子供達が遊べるところを作ってあげてください。子供達が遊び、大声をだしても大人は暖かい目で見てください。きっと、子供達の笑顔が自分達の笑顔にもつながります。どうか、頑張って下さい。

「僕」へ

僕が2010年2月に完成した時は、お父さんとお母さんはとっても嬉しかったよ。

だって、念願のマイホームだもの!

お父さんは今までコツコツと集めてきたオーディオ類に囲まれて本当に嬉しそうだった。まるで子供みたいに一日中いじっては満足そうな顔してたよ。

お母さんは広いキッチンに喜んで、みんなに美味しい料理をつくるんだって、はりきって毎朝早く起きて「僕」をピカピカにしていたの覚えている?

広い芝生とウットデッキがあって休日にはみんな集まって、バーベキューパーティーしたり、お父さん自慢のシアターで映画を見たり、にぎやかであったかい家庭にしたいねって夢を語りあったね。

そうそう、僕は知らないけれども、お母さんのやんちゃな息子はその後、とっても美人なお嫁さんと巡り合い今では3人の女の子のパパになったのよ。僕に見せたかったな、りっぱなパパになった姿を・・・

お父さんとお母さんはずーと僕と一緒にいられると思っていた。そしてお父さんとお母さんがいずれ消えても僕は子供達に引き継がれ、またずーと子供達といるものだと思っていたのよ。

あの日から、もう5年の経つなんて信じられない。そして僕が姿を消してから2年も経ってしまったのよね。

時々、僕が建っていた跡地に行ってみるけれど、改めてもうここには僕は居ないんだなって思います。ただ風の音と小鳥のさえずりが聞こえます。お母さんが話かけているのは聞こえますか。ラベンダー色のお姉さんと一緒にいるのですか。

お父さんとお母さんは、今6畳2間のみなし仮設住宅に住んでいます。息子達とも別々に住んでいます。だって7人では狭いものね。大きいお父さんとお母さんにはとても狭いです。あと1年でみなし仮設は終了となります。お父さんとお母さんは災害公営住宅には入れないんだって。なぜなら、少し難しい言葉だけれども激甚災害という制度があるのね。激甚災害地域とはたとえば、阪神淡路大震災や新潟中越地震、東日本大震災により津波や地震で家屋が倒壊してしまい、住む所が困窮している人々に国が災害公営住宅を作って、そこに移り住んでもらうんだって。お父さんとお母さんが住んでいた福島市は家屋倒壊が少なかったので、災害公営住宅は原発で避難している人達だけが入れるんだって。だから駄目ですって言われたの。お父さんとお母さんが建てた工務店は阪神淡路大震災でも全半壊がなかったと言っているけれど、それなら、なぜ、震度5強の地震で僕は全壊したのだろうね。来年の4月には何処にいるのだろう。ローンと家賃は払えないよね。

そんなこんなしている時にお母さんは「川島工房さんの想いでの家」というのを知ったの。どうしても、もう一度、僕に逢いたくてお父さんとお母さんは「いわき」まで行って来たのよ。そして私達の熱い想いを伝え完成したの。3月26日「50分の1の僕」を迎えに行きました。

どう?これが「50分の1の僕」よ。何もかもそっくりでしょう。」そこにはお父さんとお母さんと守り神だった僕の化身を入れてもらったの。時は2010年2月、これから始まる新しい生活に向けてドキドキ、ワクワクしているの。ちょっと細めのお父さんとお母さんだけどね。外観は元より、ウッドデッキもそっくりでしょう。煉瓦の色合いもポストも何もかもうりふたつで川島工房さんの技術力の高さと完成度にはお父さんとお母さんは本当に感激しました。涙が止まりませんでした。「僕」が居たから・・・IMG_0014IMG_0015IMG_0017IMG_0007

でもね、僕、実は外観だけではないのよ。中身もそっくりに作ってもらったの!驚いたでしょう。家の中は次回のお楽しみね。もう、ちっちゃくなって入りたいくらいです。

お父さんとお母さんはまだ裁判中です。長い長い戦いだけれども、決して諦めません。だって相手側にとっては何千何万棟の一棟かもしれないけれども、私達にとっては、かけがえのない一棟だもね。

また手紙書きます。

お父さんとお母さんより

 

[50分の1の僕」

僕が50分の1の姿になって私達の元に帰って来る。

僕が解体されてから、もう2年が過ぎてしまった。

私はすっかり更地になってしまった僕のもとへと何回となく通っては「ここが玄関、そしてリビング、和室があって、ここらへんがキッチンかな」などど言いながら、目をつぶると鮮明に記憶が蘇り、まるで本当にまだ、僕の中に居ると錯覚してしまう。

でも目を開けると、僕の姿は無く、風がサラサラと私の頬にあたり現実に戻る。あーそうか、もう居ないんだっけ・・・・・・

そんな時、NHKの番組を見ていたら「想い出の家づくり」というので、いわき市の川島工房さんが紹介されていた。原発や津波で家に帰りたくても帰れない人達がせめて住み慣れた我が家を模型で再現してくれるという番組だった。

私は目が釘づけになってしまった。   そう!  これだ!   どうしても、もう一度逢いたい。

いくら頭の中には鮮明に僕の姿が残っているとしても、月日が経つうちに薄くなってしまう。写真に残っているといっても、それは写真でしかない。

そんな時に川島さんに出会えた。さっそく連絡を取り、持てるだけの資料を持って、いわきへと出向いた。私達の熱い想いを川島さんは熱心に聞いてくれた。

私達の希望は2010年の2月に引き渡された時期に戻してほしいという事。そして、そこには主人と私と僕が居て、これから始まる新しい生活へ向けて夢が広がり、希望に溢れた家にしてほしいとお願いしました。

僕ではないけど、僕。ずーと壊れない僕。返事もしてくれないけど、それでも私は満足だ。来月は「50分の1の僕」に逢える。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA    川島さんの作品です。

 

*私のホームページ、ブログを読んでいただいて、ありがとうございます。何とか2年ぶりに更新する事が出来ました。励ましのメールをたくさん頂きありがとうございます。また、全員の方へ返信できない事、お詫びいたします。私達はまだ、裁判中です。とても長い、長い戦いです。でも応援してくれる皆様がいてくれる事でとても心強いです。頑張ります。

    解体作業が終わって・・・

12月12日「僕」の解体作業が終わった。
僕は消えていなくなってしまった。いくら声をかけても返事は二度と帰ってこない。
ここに僕が建っていたのは幻だったのだろうか。ラベンダー色のお姉さんには逢えたのだろうか。
すっかり更地になってしまった。

私は体調を崩してしまった。解体作業中の僕に何度も逢いに行った。壊れていく僕を見る度、私の体中が痛くなった。
心にポッカリ穴が開いてしまったようで、いっその事僕と一緒に消えてしまいたくなった時もあった。
何度も心が折れた。何気ない日常の会話で人と話すと涙が止まらなくなり外出も出来なくなった。
悲しくて、淋しくて、悔しくて・・・
何の為に僕は生まれてきたのだろう。
壊れる為に生まれてきたのだろうか、たった一年で・・・僕はどんな想いだったのだろう。
色んな事が思い出されて、波のように私を襲う。
私は立ち直れるのだろうか。
いつの日かあんな事もあったよねと想い出に変えられる時がくるのだろうか。

何事にも負けない強い心がほしい。
前を向いて生きていかねば・・・
私達の戦いはまだ終わってないのだから。
ちゃんと見届けて僕に報告しないと。

人は夢があるからこそ生きていけると思う。
その夢に向かって頑張るから生きていけると思う。
私達の夢は持ち家を再建する事。
そしてまた家族みんなで生活がしたい。

ちゃんと生きよう、私を支えてくれている主人の為にも。
そして僕の為にも頑張って生きている姿を見せよう。
2013年ももうすぐ終わる。2014年はどんな年になるのだろう。

もう一度だけ「僕」に逢いたい。

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「僕」  2013年 11月20日 家屋解体の日

今日から僕の解体作業が始まる。
朝、お母さんが来てくれて業者さんに僕の鍵を渡した。
いよいよか・・・  これが現実なんだね・・・
始めは内装から壊すそうだ。また痛い思いをするのか。
2週間ほど解体作業はかかると言われた。
僕は消えていく・・・・・・
僕は今だに納得できない事がある。
この盛土の場所に土留めもいらないと言われ、地盤改良もせず、良好な土地だと言われ、端っこに建てられて震度5強程度の地震で全壊してしまった。
一番大事な地盤調査報告書をなぜ彼らは間違えたのでしょう。
そしてなぜ地盤調査報告書をお父さん達に渡さなかったのでしょう。
もうここから僕の運命は決まっていたのかも知れない。
僕はお母さんに「お別れだね。」って言った。本当はもっと言いたい事がたくさんあったけれども、言葉にならない。でも僕達は言葉に出さなくてもお互い何を伝えあいたいのかはわかっていた。
お母さんはただ涙をながすだけ、泣き虫だなー。

この前のお休みの日にお父さんとお母さんは最後の僕の姿をビデオに撮ったり、写真を撮ったりしてくれた。
「見納めだね。」ってお父さんがポツリと言った。
たとえ姿が消えてしまっても僕はずーと2人の心の中にいるよ。
だから僕の事も忘れないでね。

玄関先での僕達OLYMPUS DIGITAL CAMERAお母さんがお弁当を作ってくれた。
僕のお家で食べる最後の食事。OLYMPUS DIGITAL CAMERA