「僕」へ

僕が2010年2月に完成した時は、お父さんとお母さんはとっても嬉しかったよ。

だって、念願のマイホームだもの!

お父さんは今までコツコツと集めてきたオーディオ類に囲まれて本当に嬉しそうだった。まるで子供みたいに一日中いじっては満足そうな顔してたよ。

お母さんは広いキッチンに喜んで、みんなに美味しい料理をつくるんだって、はりきって毎朝早く起きて「僕」をピカピカにしていたの覚えている?

広い芝生とウットデッキがあって休日にはみんな集まって、バーベキューパーティーしたり、お父さん自慢のシアターで映画を見たり、にぎやかであったかい家庭にしたいねって夢を語りあったね。

そうそう、僕は知らないけれども、お母さんのやんちゃな息子はその後、とっても美人なお嫁さんと巡り合い今では3人の女の子のパパになったのよ。僕に見せたかったな、りっぱなパパになった姿を・・・

お父さんとお母さんはずーと僕と一緒にいられると思っていた。そしてお父さんとお母さんがいずれ消えても僕は子供達に引き継がれ、またずーと子供達といるものだと思っていたのよ。

あの日から、もう5年の経つなんて信じられない。そして僕が姿を消してから2年も経ってしまったのよね。

時々、僕が建っていた跡地に行ってみるけれど、改めてもうここには僕は居ないんだなって思います。ただ風の音と小鳥のさえずりが聞こえます。お母さんが話かけているのは聞こえますか。ラベンダー色のお姉さんと一緒にいるのですか。

お父さんとお母さんは、今6畳2間のみなし仮設住宅に住んでいます。息子達とも別々に住んでいます。だって7人では狭いものね。大きいお父さんとお母さんにはとても狭いです。あと1年でみなし仮設は終了となります。お父さんとお母さんは災害公営住宅には入れないんだって。なぜなら、少し難しい言葉だけれども激甚災害という制度があるのね。激甚災害地域とはたとえば、阪神淡路大震災や新潟中越地震、東日本大震災により津波や地震で家屋が倒壊してしまい、住む所が困窮している人々に国が災害公営住宅を作って、そこに移り住んでもらうんだって。お父さんとお母さんが住んでいた福島市は家屋倒壊が少なかったので、災害公営住宅は原発で避難している人達だけが入れるんだって。だから駄目ですって言われたの。お父さんとお母さんが建てた工務店は阪神淡路大震災でも全半壊がなかったと言っているけれど、それなら、なぜ、震度5強の地震で僕は全壊したのだろうね。来年の4月には何処にいるのだろう。ローンと家賃は払えないよね。

そんなこんなしている時にお母さんは「川島工房さんの想いでの家」というのを知ったの。どうしても、もう一度、僕に逢いたくてお父さんとお母さんは「いわき」まで行って来たのよ。そして私達の熱い想いを伝え完成したの。3月26日「50分の1の僕」を迎えに行きました。

どう?これが「50分の1の僕」よ。何もかもそっくりでしょう。」そこにはお父さんとお母さんと守り神だった僕の化身を入れてもらったの。時は2010年2月、これから始まる新しい生活に向けてドキドキ、ワクワクしているの。ちょっと細めのお父さんとお母さんだけどね。外観は元より、ウッドデッキもそっくりでしょう。煉瓦の色合いもポストも何もかもうりふたつで川島工房さんの技術力の高さと完成度にはお父さんとお母さんは本当に感激しました。涙が止まりませんでした。「僕」が居たから・・・IMG_0014IMG_0015IMG_0017IMG_0007

でもね、僕、実は外観だけではないのよ。中身もそっくりに作ってもらったの!驚いたでしょう。家の中は次回のお楽しみね。もう、ちっちゃくなって入りたいくらいです。

お父さんとお母さんはまだ裁判中です。長い長い戦いだけれども、決して諦めません。だって相手側にとっては何千何万棟の一棟かもしれないけれども、私達にとっては、かけがえのない一棟だもね。

また手紙書きます。

お父さんとお母さんより