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「僕」  2013年 11月11日  あの日の事

今日であの日から2年8ヶ月が過ぎた。
今日はあの日この僕のお家で何が起きたのかを書こうと思う。

2011年 3月11日  東日本大震災
その日はお母さんはパートの仕事に出かけていた。
お父さんは夕方からの仕事だった。
お父さんはお昼頃起きて、ご飯を食べてテレビを見ていた。
午後2時30分を過ぎたので、そろそろ仕事に行く準備をしようとしていた時だった。
ゴォ~~と地鳴りがしてカタカタと揺れ出した。
お父さんはまた地震かなっと思ってすぐ収まるのだろうと思ってたらしい。
次の瞬間!想像以上の揺れがお父さんを襲った。今まで体験した事のない揺れがきてダイニングテーブルの下に逃げるのがやっとだった。
僕も何が起こっているのかが分からなく、ただ僕の体が激しく揺れる。
壁掛け時計が飛んでくる。お孫ちゃんの七五三の晴れ姿の写真も飛んでくる。
飾り棚の中に入っていた大切な物、結婚のお祝いに頂いたワイングラス、コーヒーセット、大事な置物も飛んでコナゴナになった。唯一、マリア様の像一体だけが無傷で残った。
キッチンのカップボードに入っている食器類達が騒いでいる。「僕!僕!私達は大丈夫よね、地震が来たら扉がロックされるのよね!?」と聞いてくる。
その時、再び強い揺れがきてロックされて開かないはずの扉がバーーンと開いて食器類達は「キャーキャー」言いながら下に落ちてコナゴナに壊れてしまった。
そして扉が勢いよく扉が閉まった。数枚の食器は残ったがその他は無残な姿になって食器類達は静かになった。またお母さんの大切なオーブンレンジも下に落ちて壊れてしまった。
今度はバキバキという音とともに僕の体に亀裂が入り始めた。
痛さと恐怖で何度か僕は気絶しそうになった。
その時、ラベンダー色のお家のお姉さんの声が聞こえた。
「僕!!しっかりして、頑張って踏ん張るのよ!」
「え!?踏ん張るって?」
「ほら、私の家みたく僕の基礎の下にも杭が入っているだしょう!そこに集中して踏ん張るの!」
「え?僕の基礎の下には何も入って無いよ。」
「そんなはずないでしょう、ちゃんと杭は入って無いの?」
「入って無いよ・・・助けて、お姉さん。」
「なんてこと・・・それでもとにかく踏ん張って!頑張るのよ!」
僕は言われた通りに踏ん張ろうとしたけれども、もう僕の力ではどうしようも出来ない、泣きたくなったけれどもお家の中にはお父さんが動けずにいる。どうにかしてお父さんを助けないと・・・ばかり思った。

お家の中のみんなも一生懸命踏ん張ろうと頑張っていたが、3本扉の引き戸は1階も2階も倒れてしまい出窓の扉は割れて吹っ飛んだ。
「もうダメ~~!」という声が蓄熱暖房機から聞こえると250㎏もある蓄熱暖房機が壁から外れてバーンとお父さんのいる所に迫ってきた。ちょうど、ダイニングテーブルの椅子達がブロックして止めてくれた。
あんなに重いのがお父さんの所に倒れてきたらお父さんは死んじゃう。
僕は「お父さ~ん!」と叫ぶと同時にもう耐えられなくて気絶してしまった。

どの位の時間がたっただろう、どこかで人の声がした。
それは斜め前の奥さんの声だった。
「安齋さん、安齋さん、大丈夫ですか?」ってお父さんの様子を見に来てくれたらしい。
お父さんはその声に誘われるように、やっとダイニングテーブルの下から出てきて玄関へと向かった。
お家がこれだけ壊れているので外の世界はもっと酷いだろう。もうこの世の終わりなのかも知れないと思いおそるおそる外へ出てみた。
でも外の様子は確かに道路は崩れてたり、瓦も落ちているお家もあったけれども、思ったより普通でお父さんはしばらくポカンとして外の景色を見ていた。
お父さんに声をかけてくれた奥さんの家はトイレの壁紙がピリピリと攀じれた程度だったらしい。

僕は体中が痛くて、そーーと目を開けてあたりを見ると、あまりにも酷い僕の壊れ方にもう一度気絶したくなるほどだった。
一番酷いのはお父さんの宝物がいっぱいあった北西の角のオーディオルーム、JBLのスピーカーは無残にも倒れ、マッキントッシュのアンプや真空管も全部すべて倒れ、CD類達が散らばっていた。
20代の頃からコツコツ集めてきたオーディオ類、シアタールームも含めてすべて倒れて壊れてしまった。
もうお父さんは茫然状態・・・・・・この体験が後にフラッシュバックという形でお父さんを襲うようになった。

お母さんはお家から40分ほど離れた本宮市の老舗の食堂でパートとして働いていた。
たしかに揺れは凄かったけれども、築100年以上建っているこの建物は被害もさほどなく、物が倒れるという事は無かった。
奥さんいわく「このお家は石の上に柱が建っているのよ。」って言ってたんだって。
そんな訳でお母さんも僕のお家は震度7まで耐えられるって、この前工務店の方が言ってたのでそんなに被害は無いかなって思って帰宅する事にした。途中、信号が止まってたりしたけれどもなんとか僕のお家にたどり着いた。するとお家の前でお父さんが茫然と立っている姿が見えた。
お父さんはお母さんを見ると「家が・・・家が・・・壊れてしまった。」と言ったきり男泣きになってしまった。
あわててお家の中に入るとお母さんは唖然とした。
「何!?この壊れ方!一体このお家で何があったの!?」と叫ぶ位すべての物が倒れ、壊れて壁にはひびが入り出窓の扉は砕け散ってその他の扉も倒れて足の踏み場も無い状態に何もすることが出来ずにいた。

「僕」  2013年 11月10日  解体の清め祓い

今日は僕の解体の清め祓いの日だ。
朝から天気が悪く、時おり強い雨が降り風が強く吹いている。
まるで僕達の心情を表しているかのようだ。
宮司さんは地鎮祭、新宅祭を執り行ってくれた方。
宮司さんもこんな短期間に地鎮祭、新宅祭、解体の清め祓いを執り行うのは初めてだといって
「さぞ心情は無念でしょうね、私も何と申し上げれば解りませんが立派なお宅ですね。」と言ってくれた。
式が始まるとなぜかお母さんの目からは涙がポロポロあふれた。
おとうさんはその時、走馬灯のようにこのお家に引っ越ししてから今までの事を思い出したんだって。
式も無事に終わり最後に写真を撮ってもらった。
僕の解体もカウントダウンを始めた。OLYMPUS DIGITAL CAMERA僕とお父さんとお母さん

「僕」   2013年  11月  ピカピカになったよ!

僕はピカピカになりました!
あんなに石膏ボードの粉であちこち真っ白だったのも綺麗になりました。
水が無かったので、お母さんはペットボトルに何本もお湯を入れて持ってきて掃除してくれた。
窓ガラスも綺麗になった。
僕が綺麗になった変わりにお母さんの手はボロボロになっちゃった。
「お母さんの執念だね。」って僕が言うと、「へっへっぇー、どうだ!綺麗になったでしょう~。」って一生懸命僕に自慢した。
「何だかまたここに引っ越しできる位になったね。」ってお母さん。
「いやいや、それは無理でしょう。僕はもう家の機能は果たせなくなったんだよ、だから解体されるんでしょう。」って僕。
「それはそうだけどさ・・・そういえば、僕はただ傾いているんじゃないのね。お母さんお掃除していてわかったんだけれども、右にねじれているね。歩くと体が右に曲がっていくのがわかるのよ。」
そう言うと外へ出て北西の角地に立った。なんで北側が11mの高低差があるのに±0の宅地になってたんだろう。なんで西側が26mの高低差があるのに雑木林になってたんだろう。しばらく佇んでいた。
夕日が綺麗だった。

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そしてお母さんは僕に家屋解体の清め祓いの日が10日に決まった事を告げた。
「解体の清め祓いって何?」って僕が聞くと、
「建物を解体する時には、その建物に鎮まって守り神となっていた多くの神々に感謝して、この解体工事の無事をお祈りするおまつりなのよ。その中には僕も含まれているのよ。」って教えてくれた。

そうか、僕はこのお家の守り神の1人だったのか・・・・・・OLYMPUS DIGITAL CAMERAOLYMPUS DIGITAL CAMERAOLYMPUS DIGITAL CAMERAOLYMPUS DIGITAL CAMERAOLYMPUS DIGITAL CAMERAOLYMPUS DIGITAL CAMERA

「僕」  2013年  10月  家屋解体の日程

僕の解体の日が決まった。
それは11月18日(月)の週からだ。
天候の具合により、はっきりとした日はわからない。
でも確実にお別れの日は近づいている。
覚悟はしていたけれども、その日が近づくにつれ何ともいえない悲しさや寂しさや怒りがこみあげてくる。
解体業者の方達が僕を見に来た時、「もったいない、もったいない。」と連呼していた。
「でも、これじゃ住めないよな~、中は傾きと壊れ方が凄いね。」って。
僕も本当にそう思う。だって一年だよ。
それもあれほど地震に強い家なので安心してくださいって言ってたのに・・・・・・

最近お母さんは天気の良い日には必ず僕に逢いに来てくれる。
そしてお掃除をしている。
僕は「お母さん、何やっているの?今さらお掃除しても僕はもう解体されるんだよ。」そう聞いてみると
「だからお掃除するの。僕はもう傾きも酷くてキズだらけで、ほこりも凄いし、このまま解体されるのはお母さんは耐えられない。
だから、せめて最後にもう一度ピカピカにするの。そして僕を送り出したい。
お母さんの自己満足かもしれないけれども最後に僕にお母さんからしてあげられるのは、これしかないと思ったの。」
僕は嬉しかった。そりゃ埃だらけで解体されるよりは綺麗な方が嬉しいけれども、何だかその分いっそう悲しくなる。
「お母さん、僕がいなくなっても大丈夫?」
「たぶん、駄目だと思う。今はまだ僕がこうしてこの場所に建っているけれども、解体されて更地になるなんて想像できない。悲しいし、寂しいし、悔しいよ。今は感情をコントロールするのに必死なのよ。」
そう言ってまた黙々とお掃除を始める。
あ~そうだよね。これからっていう時にこれから想い出がたくさんできるはずだったのにね。
なんで営業員さんは地盤調査報告書に間違った記載をしたのだろう?きちんと本当の現場状況を地盤調査課へ送っていて、僕の建つ位置が決まっていたのなら、また違う結果だったんじゃないかと僕は思った。

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「僕」   2013年  10月13日  バーベキューパーティー

とっても楽しかったよ!バーベキューパーティー。
願いが通じたのか、少し風は強かったけれども天気も晴れて、あまり寒くもなくできた。

お父さんとお母さんは朝から忙しく注文していた食材を取りに行ったり、みんなを迎える入れる準備に追われていた。
倉庫にしまって置いたバーベキューセットやパラソルも持ってきてやっと活躍できたよ。
でも、たった一日だったけれども・・・
やっぱりこのパラソルはこのお家やお庭にすごく映えて僕はかっこいい~と思った。

みんなが到着すると、お母さんはさっそくお家の中を案内していた。
「ここがリビングで、ほらほらここから100インチのスクリーンが下りてきてね、みんなで映画をみてたの。そしてここがキッチン。見て~食洗機も付いていて広いでしょう~、ここで料理の腕を振るったのよ。」
まるで新築祝いの案内しているみたい。
みんなも「ほぉー、お風呂広いね。4人位ではいれるんじゃない。」なんてその気になって2階のお孫ちゃんの部屋もお母さんは自慢げに案内していた。
でも誰かが「しかし、傾きと壊れ方が酷いね。あまり中に居ると気持ち悪くなるね。」って・・・・・・とたんお母さん達は現実に引き戻されて「外にでようか。」ってお庭に引き返した。

ちょうど火も起きてきて、みんなで乾杯をしてバーベキューパーティーは始まった。
お肉や野菜や海鮮類など色々焼いてみんないっぱい食べて、いっぱい飲んで笑い声にあふれて、とても楽しいひと時だった。
僕は僕が誕生してから、このお家でこのお庭でみんな集まって、バーベキューパーティーをするのが夢だった。その夢が今日叶った。
たった一日だけの最初で最後のバーベキューパーティーだったけれども僕はとても満足した。
ありがとうと何度も思った。

そして段々と日が暮れてあたりが薄暗くなると、今度はウットデッキに隣接している寝室だった所に上がりまたおしゃべりを繰り返した。
ランプの明かりをともし、まるでキャンプみたいだねって。
本格的に暗くなってしまったので、みんなも名残惜しそうだったけれども、それぞれの家路に帰って行った。
みんなを送りだしお父さんとお母さん2人だけになっても中々帰ろうとはしなかった。
「僕、楽しかった?」ってお母さんに聞かれた。
「もちろん楽しかったよ!だってお母さんの2人の息子さん達家族にも逢えたし、おばあちゃんも来てくれたし、お友達も来てくれて、こんなにこの僕のお家に笑い声があふれたのは初めてだよね。」って答えると、お母さんは泣き笑いのような、なんともいえない顔で「うん。」と答えて僕に頬ずりしてくれた。
お父さんは「僕が解体されて更地になっても、またこの場所でバーベキューパーティーしよう!。」って言ってくれた。え~~、でも僕はもう居ないじゃん。
その時僕はラベンダー色のお姉さんが言っていた言葉を思いだした。
「お父さんとお母さんが僕を忘れないかぎり、心の中で僕はいるのよ。」って。
そうだよね、僕が解体されて姿が無くなってしまっても、いつまでもお父さんとお母さんの心の中に僕はいるよね。

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「お知らせ」

このホームページは「震災と我が家」で検索しても見る事が出来るようになりました。

「僕」   2013年  10月

僕の「お別れ会のバーベキューパーティー」の日が決まった。
それは明日の13日の日曜日!!
10月に入り、お母さんは体調を崩してしまい一週間ほど寝込んでしまった。
今週に入り元気になって毎日草むしりに僕の所に通って来てくれる。
あんなにボウボウだった草もすっかりきれいになった。
毎日お母さんが来てくれて僕は嬉しかった。
2人で色んなお話をして笑ったり、ちょっと涙ぐんだお話をしたり久しぶりに僕の家に人がいるなって実感した。お父さんは仮設トイレをレンタルしてくれて、お母さんは寝室を綺麗に掃除して休憩室にするのって言ってた。
段々と準備が進む中で僕は楽しみでみんなに逢えるのが嬉しい。
特にやんちゃな息子さんは昨年結婚して、2人の女の子のパパとなっていた。
本当だったらこの僕の家で家族が増えて6人で生活するはずだった。
あんなにやんちゃで、いつもお母さんを困らせていたのに、今は家族を守るという立場になった息子さんに僕はぜひ逢いたかった。
それとは反対に僕が解体される日が近づいている寂しさや悲しみで複雑な気持ちになっていく。
それはお父さんとお母さんも同じ思いだと思う。
せめて明日は楽しくワイワイと最高のそして最初で最後のバーベキューパーティーをしようねって約束して2人は帰って行った。
明日、晴れるといいなー!!

草でボウボウだった僕のお庭。OLYMPUS DIGITAL CAMERA

すっかり綺麗になった僕のお庭。OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 

 

「僕」   2011年  2月 地盤調査報告書

お母さんは地震保険に加入した。
僕を建てる時、営業員さんに「この建物は地震に強く震度7まで耐えられますので、地震保険に加入しなくても大丈夫ですよ。」って言われたけれども、もう信じないって。
お母さんに信じないと言われた時は僕はちょっと悲しかったけれども、僕も地震保険に加入した方が良いと思った。だって揺れるんだもん。明らかにおかしいと思っていた。

そして2月24日に再度地盤調査を行いに作業者の方々が来た。
前回の地盤調査では調査が終わった後に呼び出されて実際に調査を行っている現場は見ていない。
今回はお父さんもお母さんもランランと目を光らせて、その光景を見ていた。

一通りの説明を受けて早速、調査が始まった。
まず、芝生のある南側とウットデッキのある所、目立っておかしいとは思わなかった。
さて、問題の北西の角地にきた。
スクリュウ―ポイントがすーっと入っていったと言うか落ちていったような感じ。
2人とも顔を見合わせたが、作業者の方は顔色一つ変えず、大丈夫ですよって言った。
北東の角も同じくすーと入っていった。
本当に大丈夫なの?
後でお父さんとお母さんが話していたのだが、これほど異常を感じていると訴えているのに対し、床下に潜って基礎にヒビが入っていないかとか、レーザーポイントという機械を使ってちゃんと水平かどうか調べるという事もせず、外回りをサーと見ただけで終わりっては、あまりにも簡単すぎるのではないだろうか。

後日、地盤調査結果にかんする報告書を持参して「異常は無い。」と説明されたが、お母さんは信じない。
「書面で持って来られても納得できません。どうぞ一ヶ月この家にあなた方住んで下さい。そうすれば、地震の時どれだけ揺れるかわかりますから」って言ったら、工務店の方は「この家は震度7まで耐えられます。たとえ大きな地震がきても壁紙がピリピリと攀じれる位ですよ。」って言って帰って行った。

なぜこんなに信じないかと言うと前にもお話したけれども、最初の地盤調査には駆けつけた時にはもうすでに測定は終わっていて確認の写真を撮らされて、その報告書は手元に無い。
こちらから申し出をしたら一年近くたってやっと持ってきた。
番地が間違っていたので訂正しますと言っていたが、番地は訂正されてなかった。

震災後、やっと戻ってきた地盤調査報告書を依頼した建築士さんに提出した所、実際の現場状況とは異なる誤った方角、高低差、隣地情報が記載されていた。
まず、東側隣接地には本当なら空地のはずなのに、なぜかラベンダー色のお姉さんのお家の写真が写っていた。西側は法面なのに北側の法面の写真が写っていた。
南側はラベンダー色のお姉さんの家なのに西側の法面の写真が、そして北側は法面なのに空地の写真が写っていた。
本当なら東側=空地   西側=法面   南側=宅地   北側=法面   なのに対しこの地盤調査報告書は  東側=宅地   西側=北の法面   南側=西の法面   北側=宅地 となっていた。
そして測定地点は角地にもかかわらず真ん中3点だけであった。

また高低差も北側は11mの法面に対し宅地となっているので、±0になっていた。
西側も高低差24~26mの法面なのに高低差-2~8の雑木林となっていた。
そして北側法面(高低差11m)  西側法面(高低差24~26m)のギリギリ角地に僕は建設されてしまった。

 

「僕」   2011年  1月~2月 

何だかんだと月日が経つのは早いもので、もう2011年になってしまった。
お正月はお母さんのお姉さんが来たり何かのんびりと過ごした。
地震による異常を感じるようになってから、お母さんは魔除けグッズを集め始め玄関や寝室に飾り始めた。
お母さんいわく「何か起こりそう」な予感がしたんだって。

その日はお父さんとお母さんはお休みで、まったりとしていた。
僕はふっと窓の外を見ると、隣の土地に人がいた。何をしているのかなって見ていると地盤調査をしている様子だった。
お母さんも気が付いたらしく「あらっ、お隣に家が建つのかしら。」ってお父さんに言っていた。
その人は大きな青い色をした機械を作動していた。
「ふーん、機械で測定するんだねー。うちは手動だったんだっけ。」なんて呑気な事を言っている。
午前中から始まって午後になっても作業していた。
お母さんが「何か変じゃない?うちの地盤調査はあっと言う間にと言うか私達が到着した時には終わってたよ。」お父さんも「う~ん、そうだったよね。」と言うか早いかお母さんは玄関に行って「ちょっと聞いてくる。」って。そこで、お母さんが作業者の方としばらく話をしていた。お父さんが心配そうに家の中から見ていると、お母さんが鼻息荒く帰ってきて「ちょっと、ここの地盤は凄く悪いんだって!!杭を何本も打たないと駄目だって言ってたわよ、私達の家はただのべた基礎よね。」って2人でこの家の土地の地盤調査報告書を探し始めたが、いくら探しても無い。
あっ!無いはずだよ。だって最初の営業員さんが住所の番地を間違えたから訂正しますって持っていったきり持って来ないもん。

 

お母さんはまたまた鼻息を荒くしてラベンダー色の前のお家へ出かけた。
そしてそのお家のお父さんに話を聞いていた。
バタバタと帰ってくるとお父さんに「前の家の方はね、15年前に建てたんだけども、ハウスメーカーさんに西が弱いですって言われてね、なんらかの地盤改良したんだって!!そしてね平成17年の8月にほーら私達お盆で会津に旅行に行ってた時、けっこう大きな地震きたじゃない。その時、前の道路に亀裂が入って駐車場が落ちたんだって。」
「このお家はなーんにもやってないから、こんなに地震が来る度に異常な位揺れるのよ!!」って大興奮。
さっそく工事を請け負った展示場に電話して事情を話して、もう別の地盤調査会社専門の所にもう一度地盤調査を依頼するって言ったら、それは駄目です、って言って統括責任者がすぐ伺いますと本当にすぐ来た。
その時今だ渡されてなかった我が家の地盤調査報告書を持ってきてもらった。

僕はときどきお父さんとお母さんを見ていて思う。
よく、ことわざで「石橋を叩いて渡る。」と言うのがあるが、お父さんとはどちらかと言うと渡る前にとりあえずお母さんを呼んでくるタイプ。お母さんはお構いなしに叩きもせず、えーい落ちたら落ちただって突き進むタイプ。思ったらそく行動あるのみ!
お母さんはの座右の銘は「聞くのはひと時の恥、聞かぬは一生の恥。」
お父さんはそんなお母さんを「頼もしい背中だね~。」って感心している。

お母さんはまるで特攻隊長だねって言ったら鼻の穴を膨らませてた。
お父さんの役目は?って聞いてみたら、ニッコリ笑って「隠し玉。」だって。
変な夫婦・・・・・・

 

「僕」   2010年  秋~冬

息子さんの手術も無事に終わった。
息子さんは少~し家でおとなしくしていたが、2週間も過ぎると仕事に復帰し、またエネルギッシュに活動するようになり、お母さんも一安心したようだ。

「行ってらっしゃーい。」 今夜はお父さんの夜勤の週。
仕事に行くお父さんを見送ると、なんかお母さんの顔はニンマリ。
あー僕は始まるのかっと思った。僕は今夜は遅くまで寝れないなって・・・覚悟を決めた。
お母さんはサッサと片付けを済ませ、お風呂に入って今日の仕事は終わり!!ってスキップしながら、お父さんのオーディオルームに入っていった。
えーー!?お父さん以外触っては駄目なんじゃないの?
実はお父さんのいる時でないと音楽は聞けない。だってお母さんはチンプンカンプンだから。
でもお母さんも一人で音楽に酔いしれたいとお父さんにお願いした。
そしたらお父さんはお母さんも扱えるように簡単な操作方法を教え、お母さん専用のスピーカーを用意してくれた。 優しいね~  (本当は脅されたの?)
お父さんのレベルには届かないがそれでもお母さんは大満足のようで「いいね~。」って言いながら最初はソファーでおとなしく聞いている。
しばらくするとキッチンに消えお酒をもってきて、まるでヒロイン気取りで聞いている。
お母さんがいつも聞くのは大好きなMISIA!
だんだん乗ってきました。今度は一緒になって歌い始める。
これが、また音痴!!でも本人はなりきってノリノリなので僕は何も言えない。
そろそろ僕も限界がきて「もう寝ようよー明日も仕事でしょ。」って声をかけてみるけど無視されてしまう。
そうだよね~、まだ終わりじゃないもんね。この後フィナレーが待っている。
お母さんは家中の扉を開けるとタオルを振り回しながら踊って歌い回る。
そして大満足したら、怪獣のようなイビキをかいて寝てしまう。
僕はやっとホットしてお母さんの寝顔を見ながら、幸せそうだねって思う。
でもちょっとイビキうるさい・・・

「僕」   2010年  春~夏

僕達が最初に異変を感じたのは、引っ越しをしてまだ一ヶ月も経たない3月13、14日の2日間に福島県沖で地震が発生した。福島市の震度は震度4だったが僕は初めての地震にビックリ!
お父さんとお母さんもビックリでテレビを押さえるのに必死だった。
やんちゃな息子さんも2階から降りてきて「何?何?!この地震大きいよ!」って。
どんな感じって、家が波打つような感じ。震度4には感じられず、もっと大きい震度だと思った。
幸いまだオーディオ類達はまだ僕の家には設置されてなかったので、倒れてしまうとかの被害はなかった。
それにしても揺れたねって、でもこのお家は震度7まで耐えられるって工務店の人が言ってたからねって、みんなで話をしていた。

2010年は地震が多いのだろうか・・・?    それにしても地震が来るたびよく揺れる。
震度3位の地震では飾り棚に置いてある時計や小物が落ちるようになった。
破魔矢が落ちて折れた時には不吉な予感がした。
6月の13日にも震度4の地震が来た。僕はみんな外出していて一人で留守番していたので、怖くて仕方なかった。早くみんなに帰ってきてほしいと思った。
しばらくしてお父さんとお母さんが帰ってきてくれた時にはホッとした。2人がリビングに入ってみると、スピーカー達がずれていた。壁に何度もぶつかった跡があった。  おかしいよね、だって震度4だよって僕は思った。

2人共だんだん地震に対して敏感になってきた。
夜中に地震がくると次の日お母さんは必ず職場で「昨夜、地震ありましたよね?」と聞くと職場の人達は「えー、本当?気づかなかった。」と言われる。    お母さんはいや、たしかに揺れた。気のせいではない。
揺れで目が覚めるのだから夢でもない。新聞をみると確かに地震はあったが、震度1か2位・・・
おかしいな・・・・・・っと思いはじめた。

そのうちお父さんが「昼間、ベットで寝てるとベットが揺れる。」って言い出した。
え~~怪奇現象??  お母さんが詳しくどうなるの?って聞いてみると、頭が西に沈むって。
お母さんもキッチンの備付の台がずれているのを発見していた。
でもまだその時もおかしいね~って位にしか感じなかったんだって。だって震度7まで耐えられるっていってたよ。そんな事を話しているうちにやんちゃな息子さんお2回目の手術日が決まりそれどころではなくなって忙しくなった。
僕は段々と不安になり、自信が無くなってきた。ちゃんと僕はみんなを守れるのだろうか・・・
ここの家の工務店の売りは「家は性能」